私のチャレンジ日記

脳出血の後遺症で少しハンデがありますが、色々とチャレンジしていきたいです!

私の『平成』を一文字で表現するなら『病』です

12月になって、いよいよ平成という元号も最後となりました。
前回のブログでは、今年の世相を一文字で表現するなら、私は『膿』と予想しました。
そして、『平成』の世相は?と考えてみると、色々あり過ぎて一文字で表現するにはとても難しいですが、私自身の『平成』ならば病に明け暮れた30年だったと感じています。
なので、私の『平成』を一文字で表現するならば、『病』ですね…笑
その事を覚えている範囲で書いてみたいと思います。

私の血液の病気である『特発性血小板減少性紫斑病』とわかったのが、22~23才の頃で、平成の初めぐらいだったと思います。
自覚症状といえば「人より青アザができやすい」程度だったので、この病気の事は、健康診断の血液検査データで初めてわかりました。
まず第一の治療は、『ステロイド』の服用で、しかも大量だったので、病院管理のもとで入院して服用することになりました。
当時まだ24~25才ぐらいの花のOL(笑)だったので、薬の服用だけの為に入院するのはとても退屈でした。
『ステロイド』は、様々な副作用があるようなのですが、私が経験したのは『ムーンフェイス』といわれる、顔が丸く膨れるという現象でした。
当時、私はまだ若かったので、この『ムーンフェイス』が一番イヤでした。
退院後、友達の結婚式があって、その顔のまま参加したのですが、記念写真には、しっかりまんまる顔の私が写っています…笑
そして、「猛烈に食欲が湧く」という副作用もあって、病院の3食以外にも、お菓子を食べて空腹を満たしていました。当然、5キロぐらい太りました。
私が記憶している副作用はこれぐらいですが、人によっては副作用が辛すぎて服用を断念した人もいるので、個人差は大きいと思います。
その後、私はこの病気の完治を望んで、27才(平成4年)の時、開腹手術で『脾臓』を摘出しました。
当時は、術後の麻酔が今のように良くなくて、麻酔から覚めた私は、痛くて苦しくて、ベッドに吊るされた『すず』を鳴らして、看護婦さんを呼び、痛み止めの注射をしてもらっていた事を覚えています。
(後に婦人科で、2013年に子宮全摘の開腹手術を受けましたが、術後の痛みがあまりなく、医療は格段に進歩していると思いました。)
でも、脾臓摘出のかいもなく、血小板の数値がいっこうに上がらず、2~3万の数値をウロウロしていました。
その後は、時々「ステロイド」を服用しながら、だましだまし現状維持をしていました。


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そして、32才(平成10年)で主人と縁があり結婚しました。
独身時代は、『血液の病』だけだったのですが、結婚後は新たに『婦人病』にも悩まされることになりました。
30代は、とにかく「子供」が欲しくて、友達から送られてくる子供の写真付き年賀状を羨ましい思いで見ていた事を思い出します。
「いつか私も…」というささやかな夢も持っていました。
でも、結婚の翌年に、「粘膜下筋腫」という子宮の内側に筋腫ができるという婦人病になり、毎月の生理出血が多くて貧血に苦しめられました。
「血が止まりにくい」という血液の病気は、毎月訪れる「生理」もネックなのに、その上「子宮筋腫」を患ってしまい、ダブルパンチの窮地に追い込まれました。
鉄剤を服用したり、貧血がひどい時は、赤血球の「輸血」も受けました。
でも、「子宮筋腫」がある限り、鉄剤も輸血も「その場しのぎ」の繰り返しなので、出血のリスクはあるけれど、元凶の「筋腫」を摘出する手術に踏み切りました。
普通の人なら、「子宮筋腫」の手術は簡単だと思いますが、私の場合は「止血」の問題があるので、医師もかなり慎重だったと思います。
ただ、幸いなことに、「子宮筋腫」といっても、子宮内の「粘膜下筋腫」だったので、開腹術ではなく、下から(膣式)だったので、術後はかなり回復が早かったです。
それを受けたのは、34才、平成11年の頃でした。
その後、生理出血はかなり楽になりましたが、数ヶ月後、新たに「卵巣の子宮内膜症」になり、苦しむ事になりました…
また、続きを後日書いてみたいと思います。