「言いたいことが言えた!」夢の中での出来事だけど…
夢に現れた伯父は私のこと…⁉
つい先日、おかしな夢を見ました。
もう10年以上も前に亡くなった母方の伯父が夢に現れ、宴会席みたいなところで 、誰かと向かい合ってお酒を酌み交わしていました。
私はと言うと、二人の近くに座ってその様子を見ていました。
しばらくすると、伯父が男性のおちょこに注ぎ過ぎて、テーブルにお酒を溢したではないですか!
「すみません~」と伯父は謝りつつも、またしばらくして同じことをしたんです…
これを見ていた私は、「 伯父はもう帰りたいんだ。だから早くお酒を減らしたいんだな。」とわかりました。
というのは、「ついうっかり」の粗相ではなく、明らかに不自然だったからです。
私は伯父に向かって、「そんなことをしたら相手に失礼だよ。帰りたいなら、はっきり言った方がいいよ。」そんなことを口走ったように思います。
そこでパッと夢が覚めましたが、夢の中とはいえ、伯父に発言した自分に驚きました。
以前の自分なら夢の中でも言えなかったのに…笑
夢で見た伯父の態度は、私の親を含め「言いたいことが言えない…」そんな人が多かった世代のように思います。
それに、今ふと思ったのですが、実は伯父の姿が私であり、もう一人の自分が私に対して言った言葉ではないかなと…。
「言いたいことを言う」勇気がいるけど大事な一歩…自分のために
私の実家は自営業をしていたせいか、両親はお客さんや仲介業者の顔色を見ながら商売をしているという感じでした。
不当な値引きをされても文句も言わず黙っている…そんな姿を何度も見てきました。
そんなふうだったから、人には好かれていましたが、自分自身はストレスを溜め込んでいたと思います。
言いたいことも言えず、ぐっと押し殺していたのですから。
父は「責任ある」経営者、母は「責任があってない」立場だったから、亡き父の方がそんな思いが強かったと思います。
母はといえば、自分の気持ちを押し殺していることにすら気づいていないような感じがします。
「我慢が美徳」で育ってきて、それが当然のように染み付いているから。
私もそういう親や時代背景で育ってきたせいか、小さい頃から「自分さえ我慢すれば」という自己犠牲が強かったように思います。
「言わなくても察してよ」そんなことを思ったこともありました。
「 察する」というのは、相手の気持ちを推し量とかるいうような意味がありますが、なかなか自分の期待通りにはいかないものです…
「 察する」は、相手任せと言うか、相手が主体なので、自分が希望していることと違う場合があるんですよね…
自分が希望する通りのことならストレスが起きませんが、そうでない場合はストレスが生まれる。
だから、はっきり言った方がストレスが溜まらないように思います。
「はっきり言う」って、慣れてないから勇気がいることです…
私もまだまだ遠慮がちだけど、以前の自分(健常な時)よりは言えるようになりました。
「言いたいことが言えない自分」というのは、モヤモヤして苦しくなる。自分をごまかしているようで…
以前、兄や義姉に母のことで言えた時は、「言えない」というハードルを乗り越えたような爽快感がありました。
どんな些細なことであれ、自分を出せたら嬉しくなるもんですね。
本音と一致した『社交辞令』は好感的
実家が自営業だったので、『社交辞令』の言葉を当然のように聞いてきました。
本音と言葉が一致した社交辞令ならいいと思うのですが、本音と裏腹な社交辞令を耳にした時はとても違和感がありました。
例えば、もう立ち寄って欲しくないのに、「また来てくださいね」とか。
社交辞令というのは奥ゆかしさがありますが、自分の本音をごまかす言葉でもあるなと思いました。
そういえば、今の私は殆ど心にもない社交辞令は使っていないな…
逆に難しいなと感じます。(顔が引きつりそう。笑)
(本音と言葉が一致した、お互いの心が温かくなるような『社交辞令』は使っています。)
夢とはいえ、亡き伯父に会えて懐かしかったです。
次は楽しい夢に出てきて欲しいものです(^^♪